2008年2月25日月曜日

山本モナ

近頃、山本モナがあちこちのバラエティーに出ている。

こんなに沢山でるようになったのには事務所の努力もあったのだろうが、
つまらなければ声はかからないはずなので、面白いのだと思う。

なるほど、生き生きしているし、自分の個性を惜しみなく出していて、
魅力的だと思う。

路上でチューした民主党の若手代議士は直接のコメントを避けて、
人の噂も75日を決め込んでいるが、暫定税率にからむ国会質疑などの
シーンでは、本当だろうか?本音だろうか?という白々しさをつい感じて
しまうのは、私だけだろうか?

人間だれしも魔がさすことはあるもので、繰り返す失敗も数え切れないと
思うのだけど、いくら繕ってみても自分の価値が高まるわけもなく、事実も
消えない。

事実を認めるということは、とりもなおさず掛け値なしの私をさらけ出す
ことで、いいところも悪いところもある正味の自分に付き合ってもらうという
宣言に他ならない。

モナさんは、確かに見た目はきれいだが、それだけではない人間味が
画面から伝わる。それがなかなか素敵だと思う。

がんばれ!いや、頑張らなくていいぞ!

2008年2月20日水曜日

脳のトレーニング

眼力トレーニングその他、脳を活性化するというゲームがある。
テレビCMの画面を見るだけでもついていけてないのがはっきり分かる。
あー、俺もこんなに老化したのか・・と寂しさが気持ちを覆う。

だがまてよ?これって本当にそうなの?

子供たちも各種のゲームに凝っていた時期があり、後ろで見ていて
「すごい!」と驚く一方、「なんかこれは危ないなあ・・」と思っていた。

相手の能力や出方、こちらのエネルギー残量や武器など、画面のあちら
こちらに表示される情報を、眼の焦点を合わせることもなく理解しつつ、
飛び上がったり回転したり武器を振るう。こんなに沢山のことを同時に
やってしまうなんて、なんとすごい脳なんだろうと感心した。

コンピュータのプログラマーの作業を見ていたときにも、こんなにすごい
速度で流れる記号をよくも瞬時に判別できるものだと感心した。

だが待てよ、脳の機能が高まるということの中に、「じっくり考える」という
のは存在しないのだろうか?いわゆる「思考力」といわれるものは何?

満員電車の中で、携帯のゲームに熱中している人をかなり多くみかけるが、
ゲームする空間をギシギシと確保して周囲に迷惑がかかるというのが
普通の思考した結果になることを考えると、速度とか量とかだけでは
測れない能力がありそうに思う。

そろそろ、こういう画一的な価値をもてはやして誰かが儲けるというのを
止めにしませんか?

生き物というのは緊張と弛緩、活動と休息という反対のものを両方とも
必要とするのであって、そこのところを皆が分からない限り居心地のいい
世の中にはならないと私は頑なに信じます。

もう古い?そんなの関係ない?

2008年2月10日日曜日

今という時代

だいぶん長い間ブログから離れてしまいました。
だからといって日常なにも感じなかったわけではありません。

日本でもアメリカでも、隣の人があるひ突然虐殺者に変わる事件が
頻発しています。今で言う”キレル”現象ですが、どうしてなのか・・。
答えはないままにチョット考えてみた。

ずいぶんと前に聞いたことのある”人間社会の螺旋状進化”はなぜ
起きるのかという理論ですが、私個人としてはかなり納得しています。

 規範⇒理性⇒感性⇒感覚⇒規範⇒理性・・・と

社会の大多数の心理が繰り返してゆくのが、社会的生物の人間の
宿命だというような意見です。私がデフォルメしていたらオリジナルの
提唱者のかた、ごめんなさい。折角ですから、間違ったままで続けます。

規範社会というのは、”世間が許さない”とか”お天道様が見ている”とか
と表現すれば、それ以上説明しなくても全員が善悪を知っている社会を
意味します。

理性社会というのは、ある社会通念としての善悪に関して、よくよく考え
ればそれを悪だと決めつけるのはおかしいという正当性の主張を、
それもそうだと受け入れる風潮が盛んになっている社会です。

感性社会というのは、理性的な善悪だけが社会を構成しているのでは
ないから、これが心地よいとか美しいと感じるとかという感性を大事に
する社会です。

感覚社会というのは、心地よいことだけが感じるわけではなく、汚いとか
醜いとかいわれるものもイケテルではないかという意見を理解する社会
です。

平たく例えるなら、躾の厳しい家で育てられた子供が、よその家の様子を
知るにつれて別のルールも採用するべきだと主張するようになり、
じゃあ家庭内で話しあって多数決で決めてゆくことに決まった。そのうち、
音楽に出会い、話し合って決めた一流大学・一流企業というコースより
楽器を演奏したい気持ちが強くなってしまう。どうしてもという子供の気持ち
も分かるし、悪ということでもないので、そんなに好きなことならと認めてし
まう。音楽を続けるうちに既成の音楽に限界を感じ始め、ステージで全裸
になり、楽器を打ち壊し、脱糞したりなど凡そ人のやらないことにある種の
達成感・快感を感じるようになったが、数人の仲間は理解してくれるし、
別の世界でも似たような異端児が沢山でてくるようになった。
今まで我慢してきた親たちは、何ぼなんでもこれは異常としか思えないので、
これは善くこれは悪いと厳密にきめることにする。・・・

元禄時代がどうであるとか、大正ロマン、とかエロ・グロ・ナンセンスとか、
典型的な時代はあるが、さて現在はどんな時代なのだろう

どうも、”いつでも過渡期”のような気がする。
まず選択肢が天文学的に増えた。
選択肢を知り、選ぶには効率のよい情報伝達が必要となりITが進歩した。
一つ一つを選ぶには、ネットサーフィンのように瞬時に取捨選択して
次に移らないとこれは到底無理なはなし。要するにひとつについて
深く考える時間がないので、すべてが要約版になる。
マスコミも要約して伝えるのが使命だから、深みを求めるのは一種の
マニアに位置づけられる。そのようなマニアがあらゆる領域に生まれて
マニアという一種の市民権を与えられてゆく。
天文学的に多くの価値観が共存するかの状況ができあがる。
それ自体は悪いこととは一概に言えないのだが、問題は”何が悪いのか”
を深く論議する習慣が薄れているので、社会として何が一番大事なのか、
なにを排除するのは妥当かを決めることが難しくなり、結果として、
非常に短期間のうちに、規範、理性、感性、感覚が話し合われ、
結論らしきものを得るとすぐに次の話題に移り、忘れられてしまう。

”考え”とか”思い”というものが使い捨て、インスタント化しているし、
大事にされないのだから、人間が大事にされなくなるのも当たり前。

少なくとも、便利とか文明とか科学とか新しいとかが追求されて、
情報と物が個人の許容範囲を越えた現代は、無意識のうちに表層的な
考えに流されているのではないかと疑って生きるのが大切かも。